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代表者の経歴

幼少のころ

特殊電子回路株式会社の代表者、内藤竜治は、幼少のころより電子回路が好きで好きでたまりませんでした。一説によれば2歳のころからはんだ付けをしていたようです。

小学生のころ、友人がサッカーやファミコンに興じている間にも、藤沢市民図書館に足しげく通い、誠文堂新光社などの電子工作関係の蔵書をほぼ読破していました。

もちろん私もファミコンはやりましたが、主にハマったのはファミリーベーシックでした。電子工作生活を大きく変えたのは、小学校6年生のころに出会った「マイコンの割り込み処理とDMA (矢野越夫著)」という本でした。この本ではじめてZ80という存在を知りました。ディジタルICでちょこちょこやっていることが、マイコンを使えば汎用的にできる。それは大きな衝撃でした。

しかし、この本はZ80の入門書ではなかったので、より詳しくマイコンのことが書いてある本が読みたくなったのです。それから「マイコン回路の手ほどき (白土義男著)」という本があることを知ったのですが、当時、藤沢市民図書館には蔵書としてありませんでした。

中学・高校生時代

中学生のときには、万能基板でZ80のマイコンボードを作って、ハンドアセンブルとDIPスイッチでマイコンのプログラムを作っていたような気がします。

人生を変えたのがMSXとの出会いです。DIPスイッチでパチパチとプログラムを組むのではなく、キーボードでプログラムが組める、フロッピーディスクに保存できる、というのがとても新鮮でした。プログラミングが楽しくて、MSX好きの友人とMSX三昧の日々を過ごしていました。

高校生のころもMSXにハマっていました。MSXにRS232Cの自作ハードを接続して、アマチュア無線のパケット通信を行う、というそんな日々だったと思います。このころになると数学的知識が身についてきて、トラ技が読めるようになりました。

余談ですが、中学までは軟弱でしたが、高校から柔道部に入ったことで体力もつき、何日徹夜しても平気な体になり、生涯にわたる自信が付いたと思います。

大学時代

さて、そんな私は1995年に東京工業大学の理学部の1類に入学しました。なぜ、電気電子工学である5類ではなく1類を目指したかというと、物理学こそが自然科学の根本であって、電子工学は物理学から導き出されるものだと考えていたからです。環境汚染やエネルギー問題などの社会問題を解決するには、自然科学の根本である物理学を理解していなければならない。電子工学は独学でもなんとか勉強できるが、物理学は大学の設備がないと学べない、と考えていました。

人生を変えたのは、(1)東工大のサークル「ロボット技術研究会」(通称、ロ技研ろぎけん)と、(2)大学の近くにあった画像応用計測器会社でのアルバイトでした。

ロ技研では毎日徹夜して回路を作ったり、あるいは始発電車で部室に行って終電で帰るという生活をしていました。回路の話ができる先輩がいたり、GALライタがあったり、オシロがあったり、そういう魅力的な環境があったわけです。このときにハードウェアフーリエ変換器や空中配線ロボットなどを開発しました。

アルバイトでは、1997年当時、まだ夢のまた夢であったFPGAや回路CADを触ることができ、非常に貴重な経験をしました。ISE Foundationが1.4とかいうバージョンでXACTを使っていた頃です。回路CADはWorkViewOfficeでした。ファイル共有はNetWareでした。

学業のほうでは応用物理学科に進み、4年生のときには加速器を用いた天体核物理の実験を行う研究室に配属されました。その研究室は、ペレトロンという加速器で陽子を飛ばして、何かの物質にぶつけて中性子を出し、その中性子とターゲットとなる元素が反応したり散乱されたりする確率(断面積)を求めるということをやっている研究室でした。pやnやγを何かにぶつけてその断面積を測るという実験をやっていたようです。断面積がわかれば宇宙初期や超新星爆発での元素合成の過程がわかってくるらしいのです。

そういった実験では検出した信号を電子回路で処理するのですが、センサと初段のアンプはたいてい手作りです。手作りゆえOPアンプが発振していても、容量負荷による発振ではなく、先輩にはノイズだと言われます。ですが、学部4年生が博士課程の先輩に向かってノイズじゃなくて発振だといっても、とても聞いてもらえる雰囲気ではありません。

物理の実験というのは、発振していようが反射していようが、それなりに計測できてしまうから不思議でなりません。そもそもパルスの高さや面積、あるいはパルスの数しか見ないのですから、パルスの形はどうでもいいのでしょう。いざとなったらディスクリをかけてしまうというわけです。

その当時から、NIMとかCAMACの装置を100本くらいの同軸ケーブルでぐちゃーっとつないだ計測システムを、高速ADとFPGAで置き換えてしまいたいという夢を持っていました。

大学院時代

大学院は、1999年に東京大学工学系研究科のシステム量子工学専攻、鈴木篤之先生の研究室に進みました。システム量子工学というのは今では原子力国際専攻という学科名に名前が変わっていますが、今も昔も原子力です。(大きな事故があると学科名が変わるらしい)

当時の私は、エネルギー問題を解決したいという明確な意思があったのでしょう。鈴木篤之先生は核燃料サイクルの第一人者でした。

放射性廃棄物を処理できればもっと原発をたくさん作れてエネルギー問題が解決できるに違いないと思っていた私は「消滅処理を研究したい」という動機でシステム量子に進学したのです。先生から動燃の白書か何かを読むようにと分厚い資料を渡されて、読んでみて、消滅処理は無理だということにすぐに気が付きました。私が慕っていた技官の先生からは「動燃の古傷に触れてはいかん」といわれ、その夢はあきらめました。

そこで、私は当時講師であった長谷川秀一先生の元で半導体レーザーを使った低レベル放射性廃棄物の計測に関する研究を始めました。

Caイオンをトラップしてレーザー冷却して、特定の同位体が吸収する波長の光(線幅が数MHzと非常に細いシングルモードレーザー)を当てて、光ったイオンの個数を数えることで、同位体の構成比を調べるという壮大なプロジェクトです。

実はスタートしたばかりでまだ何もない研究室です。レーザーの光源も拾いものや動燃のお古です。ロックインアンプも借り物です。波長計もありません。エタロンとかガルバノとか、使えるのかどうかわからないような古いものがあるだけでした。

それどころか、レーザーの実験で必須のミラーさえ、蒸着が剥がれ落ちていて、まともなものはほとんどありません。「焦げて無いところ使って」とよく言われたものです。

 

当時出たばかりの紫外線半導体レーザを大事に使って、光源を作るところからスタートでした。

大学院の2年間のほとんどを実験装置を作るのに費やしました。ここが失敗でした。本来この2年間は物理の勉強を行わなければならない期間であって、装置を作るのは業者にやらせて自分は研究をするべきだったのです。研究室にはお金もなく直属の先輩もいない状況だったので、先生に頼み込んでどこかの研究所にソルジャーとして送り込んでもらって、知識とノウハウを身に着けてくるべきでした。しかし、私は装置作りが面白くて2年間を装置を作り続けることに費やしてしまったのです。
(2013年に久しぶりに研究室を訪問したところ、ついに研究が成功したそうです。私が卒業してから12年後のことです。)

レーザーダイオードの温度変化を1mK以内抑えるPID制御の温調とか、レーザーダイオードのドライバとか、フォトダイオードとOPアンプとか。回路設計が楽しかったといえば楽しかったです。

当初は博士課程へ行こうと考えていたのですが、卒業間近の3月に結婚することにしたので、進学は断念しました。

会社員時代

実験装置を作るだけで修士を修了してしまった私は、2001年に日立の某子会社に就職しました。配属された先は、企業のネットワークの設計や構築をする部署で、主に首都圏の企業や公共機関のインフラ屋さんでした。

まったく、電子回路とは関係がありません。

そもそもなぜこの会社に就職したかというと、「電子回路系の企業に就職すると、自分でブログとかHPとかで回路のことを書けなくなる」と思いこんでいたからです。

でも、毎日毎日、仕事で回路とはまったく関係ないことをやるのはきついものです。そんなころからナヒテックという名前で、会社に内緒で個人事業者を始めました。CPLDの変換基板とか、コンフィグROMの変換基板とか、FPGA基板とか、ほそぼそと始めました。

 

仕事は電子回路とも、物理学とも、原子力ともまったく縁のない世界でした。のんびりとした職場で、のんびりとした先輩と、ゆったりとした時間を過ごしていました。

そんなとき、ある指令が下さたのです。「(日)の(電)に行ってくれ」

(日)というのは茨城県日立市にある日立製作所のこと。(電)というのは電機電力グループのことです。(電)に行かされたのは原発関係のお仕事です。(電)にいった先輩たちはみな玉砕して帰ってきたとのことです。いったいどんな怖いところなのでしょう。

(電)では、どんな仕事だったのかもうすっかり忘れてしまいましたが、巨大なネットワークを設計をしていました。設計といっても文書を作るのがメインの仕事です。

文書の些細な記述を直されたり、会議での質問の仕方を非常に厳しく指導されました。なんでこんな厳しくあたるのか、どうして般企業とこれほどまで違うのかと悩んだわけなのですが、それが高信頼性に求められるクオリティーの必要条件だったのです。

曖昧さがあってはいけない。誰かに聞いたり人の記憶に頼るのではなく現場で実物を確認しなければならない。だから、誰も教えてはくれない。そのことに気が付くまで延々と怒られ続けました。日立製作所の人たちは子会社の人につらく当たっているのではなく、育てたいと思って厳しい態度をしていたのです。非常に良い経験でした。

 

無事に仕事を完遂して東京に戻ってきた私は、未踏ソフトウェア創造事業に採択されたのを契機に会社を辞めました。2003年秋のことでした。

個人事業者ナヒテックの本格的なスタートです。

 

続く

 


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